シルクロード日記:キルギス
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 天  候:くもりのち雨  最高高度:2951m
最高気温:--度 終点高度:2920m
最低気温:--度 終点緯度:39.38.37
走行距離:56.4km 終点経度:73.52.00
走行時間:5時間5分 宿泊:D Tolik宅
終着地:国境から5kmの村 宿泊代 :10$
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2004年7月29日(木)
スイス人サイクリスト  キルギス側国境。荒涼としている
スイス人サイクリスト キルギス側国境。荒涼としている
今日は国境をめざす。5月11日に中国に入国してから今日で80日目。正直いって、もっと早く中国を走りきれるんじゃないかと思っていた。しかし現実は甘くなかった。ところで「国境」と言っても漠然としていて、実際にどこがチェックポイントなのかわからない。吉根(村の名)が国境なのだろうか?でも地図を見るともっと西に地名がついている。などと考えながら進んでいると前方にサイクリスト出現。スイス人のカップルでビシュケクから走ってきたそうだ。2台ともフル装備(前後の左右に4つのバッグ)でしかも後ろには重そうなバックパックまで積んである。スキーのストックみたいなのも持っていたから本格的な登山もやるのだろう。この寒さでもテントは問題ないと断言していた。これだけ装備があれば防寒は万全だろうが、よくあんなに積んで走る気になるなと思う。国境がらサリタシュまで村はないがユルト(中国でいうとパオ)があちこちにあるのでパンとヨーグルトを買える、と言っていた。これはいい情報。いざとなったら泊めてもらえそうだ。そういえば男性はスントの時計をしていた。やはり定番のようだ。女性の自転車はキャノンデールでバッグは全てオルトリーブ。いいなあ...一度やってみたいなあ。

やがて吉根へ到着。ここもやはりキルギス人が多い。漢民族も時々見かけるが工事のために来ている人たちのようだ。このパターンは多いよなあ。他に仕事があればこんなところまで働きに来ないわけで、工事が終わった後に失業者として現地に残るのが社会問題らしい。ここで炒菜とマントウを食べたら3元。安い。
吉根はいたって平穏で検問も何もなし。そのまま村をあとにして先へ進む。アップダウンが多い上に、雨でぬかるんでいるところにはまり泥だらけになってしまった。最後まで苦労させられる。中国最後の集落は吉根でなくて斯木哈納だった。ここの端が「口岸」つまり国境地帯の始まりだ。すぐに国境を渡りたかったが昼休みに当たってしまい、2時間も待つ羽目になり、近くの商店へ入った。ここの家族もやはりキルギス人でキルギス語を教わったりして過ごした。すると突然、見覚えのある顔が目の前に現れた。敦煌のYingYingCafeで会ったおばさんだ。ウルムチからタシケントヘのフライトがもう廃線になっていて陸路に変えたという。フランス人2人と一緒にタクシーをチャーターし、今朝カシュガルから来る途中で私を抜いたらしい。

しばらくしてやっと国境がオープン。斯木哈納の端にある「伊爾克什坦口岸」と書いてある建物の中に入り、検疫(書類のみ)、パスポートコントロールを通過する。もちろん英語が通じた。書類にはキルギスでの連絡先を書かされるので、ガイドブックなどでホテルの住所を控えておくとよい。税関にはX線装置があるが稼動しておらず、税関職員らしき人はいなかった。なお、自転車があるので車用のレーンに通されるかと思ったが一般旅行者と同じ方を進んだ。そこから10分くらい漕ぐと検問があり、車が列をなして待っていた。キルギス帰りのウイグル人たちは徹底的に荷物を調べられていた。ここが実質的には税関のようだ。ここにはX線装置はないし、屋根もない。全く理解できない。ここの職員は腐っていて面白半分にいい加減にやっているという感じ。責任者の女性は小屋の中から出てこようともせず、中から大声で色々と指示を出す。まさに中国の悪い面を最後の最後に見せつけられた。なお、キルギス側からバイクでやってきた白人のカップルはかなり時間がかかっており、やはり車両の持ちこみは面倒くさそうだった。入国してくる車両ばかり調べるのでなかなか順番がまわってこない。例の日仏3人組もトラックの中で待ちぼうけだ。1時間以上待ってやっと呼ばれた。荷物は開けられずスムーズに通過。やれやれ。そして少し進むとゲートがあり、ここが中国側の最終チェックのようだ。タワーの中に上司がいて中から大声を出して部下としゃべっている。顔は出さない。やれやれ。

そのゲートを越えるとついにキルギス側のゲート。若い兵士がやってきて日本人のガールフレンドが熊本に住んでいる、などの話をして、自転車を運転させてあげた。中国側とはえらい違いだ。そこから先、何キロか走るのだが、そこが悪路で脇の道を走っていたら前後ともパンクしてしまった。車が通らないように先をとがらせた針金が巻いてあったのだ。すごい歓迎を受けて泣きそうになった。12、13回目のパンク(前輪2回目、後輪11回目)。修理している間に国境が閉まったらどうするんだ。この際タイヤもスペアの幅広のものに交換しようと思い自転車から荷物を全て外していると、若い兵士がやってきて手伝ってくれた。さすが軍人、空気入れのポンピングがめちゃくちゃ速かった。何とか復活してゲートにたどりつくとパスポートを見せろと言われ、見せたところ開門してキルギス側国境は町はなく、無数のコンテナが目につく。トレーラー生活者がガラクタ集めをしている。何だかやばい感じだ。案の定、せがまれて子供の写真を撮ったら親がでてきて金を請求された。誰が払うかって。ここには長居できない。国境を出てくすぐに天気が荒れてきた。もう時間も遅いし最初の村で泊めてもらうしかない。と思ったら目の前に村が。近くで作業をしていた男性が声をかけてきて泊めてくれるという。酒臭いのが気になったが状況からして世話になるしかない。

彼の名はTolikといい、1976年生まれ。私とほとんど同い年だ。奥さんと3オの男の子、赤ちゃんがいる。他にもTolikの弟など若い男性3〜4人が一緒に寝泊まりしていた。夕飯の前に値段交渉が始まった。いきなり50ドルと言われ目が点になった。とんでもない奴につかまってしまった。外は嵐だし食料も少ないし、この村に泊まるしかないのだが。この家を出て村中をまわってもっとまともな家を探そうかとも思ったが、結局10ドルで交渉成立。キルギス初日は大変なことになった。ただし奥さんはすごくいい人で色々と気を配ってくれた。ウルムチに友人がいるとのことで少し中国語ができたし、自転車旅行にも興味を示してくれて、夫よりも知的で視野の広い人だった。夜はみんなと同じ部屋で寝た。
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